2009年12月28日

私的、広島と映画とアニメーション論 05

05 広島映画センター設立

 映画サークル会員(友の会)制度を見直し、自主上映会の活動も軌道に乗り、映画サークルの全国組織、全国労映(現在の映画鑑賞団体全国連絡会議)の活動も活発化し、『映画を観る』鑑賞活動と『良い映画』を普及する活動とを展開し、事務局員も2名となった。
 自主上映例会作品は1969(昭和44)年9月の第1回「ひとりっ子」、から年6回〜8回、1972年3月まで「ベトナム」「大地のうた」「西部戦線異常なし」「長距離ナンナーの孤独」「ひろしま、ヒロシマの証人」「若者たち、若者はゆく」「母、ストライキ」「鉄道員」「わかれ道」「西ドイツ映画祭」「戦争と人間第2部」「大河のうた」「山田洋次監督作品集」「腕という女」「アルジェの戦い」「わが青春のフロレンス」「羅生門、雨月物語」だった。
 上映館は「文化ニュース館」「労働会館」「中央名画劇場」「環衛センター」「朝日会館」「スカラ座」「駅前東映」「広島宝塚地下」と地元劇場の協力を得て例会活動を進め会員拡大と事務局体制を築いた。
 1972年4月1日、広島映画サークル協議会に映画センター部を設置し事務局員1名(西田澄子)を専任として配置した。16ミリ映写機がなかったので購入すべくカンパを訴え実現した。(それまでは広島市教育委員会から16ミリ映写機を借用していた。)そして、16ミリのフィルムを先ず1本を購入し広島県内の上映活動を開始した。1972年6月には全国の各県映画センターとともに映画センター全国連絡会議(全国映画センター)を結成した。

posted by T.K at 07:22| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月21日

私的、広島と映画とアニメーション論 04

04 映画サークルに入会

 私は、1961(昭和36)年9月、広島映画サークル協議会に入会した。事務所は八丁掘11−14共和ビル2F。当時のことを、2003年9月28日第300回例会「阿弥陀堂だより」を迎えた広島映画サークル協議会の『300回例会のあしあと』に元事務局長小森敏廣として寄稿文を寄せているので転載する。
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300回記念例会おめでとうございます。私が映画サークルに入会してこの記念例会当日にはなんと42年になります。九州から広島のRCCに入社したのが61年4月。9月にRCCが今の基町に社屋移転。組合の掲示板で映サの入会案内をみて、映画好きの私はすぐに入会。当時例会制度はなく、劇場での割引活動。月に5〜6回は映画を見ていたので会員になれば絶対お得でした。59年の映画界全盛期を過ぎ、下降ぎみの映画界といってもまだまだ映画は娯楽のNO.1。当時の会員数は2万名近くで事務所には村上事務局長以下4名の専従者。毎日事務所に出入りしていた私は運営委員(当時は幹事)に推薦され映サとの付き合いが始まりました。斜陽の映画界にはなすすべもなく会員数は激減。事務局員もゼロに。66年3月には事務局長(非専従)に昇進?。16ミリ映画での小例会をやりながら、サークル重視の活動を持続。例会活動を会運営の中心に位置づけて、69年9月の第1回例会「ひとりっ子」は懐かしい想い出です。
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 映画サークル入会時は映画が安く見れることが魅力だった。会員が減る中で会員(友の会)制度を見直し、自主上映会中心の活動に軌道修正した。全国労映(現在の映画鑑賞団体全国連絡会議)の活動も活発化し、『映画を観る』鑑賞活動と『良い映画』を普及する活動とを展開し、1972年には事務局員も2名となった。
posted by T.K at 10:03| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月13日

私的、広島と映画とアニメーション論 03

03 広島での映画との出会い

1961(昭和36)年4月に九州の佐賀県から広島へ来た。その当時の広島市内の映画館は。昭和36年10月1日発行、映画手帖(定価15円)によれば
洋画封切館 4館
東劇(胡町)リッツ劇場(三川町)宝塚(堀川町)朝日会館(基町)
洋画2番館 6館
ラッキー劇場(立町)新天地(新天地)セントラル(翠町)松竹名画座(八丁堀)中劇(中ノ棚)ライオン座(駅前)
邦画封切館 14館
松竹東洋座(八丁堀)広島東宝(八丁堀)日劇(荒神町)広島東映(八丁堀)的場東映(的場)鷹野橋東映(鷹野橋)広島日活(荒神町)福屋(八丁堀)大映帝劇(八丁掘)大映太陽館(的場)鷹野橋大映(鷹野橋)東映地下(八丁掘)松竹新映(段原)駅前東映(猿候橋)
邦画2番館 19館
有楽東映(土橋)新シネ(新天地)若草(土橋)的場宝劇(的場) 文化ニュース(労働会館地下)鷹野橋OS(鷹野橋)土橋日活(土橋)南座(皆実町)己斐松竹(己斐)横川大映(横川)舟入劇場(舟入仲町)白島東宝(西白島)港劇場(宇品)大劇(出汐町)寿映劇(若草町)銀映(横川)白島銀映(東白島)オリオン劇場(吉島) 富士劇場(西観音)
と、43館もあった。
1958(昭和33)年の日本映画人口は11億2745万2千人。映画界はこの年をピークに斜陽の道を下り坂に、全国の映画館は1960(昭和35)年の7457館をピークで減り始めた。それでも1961(昭和36)年広島市内の映画館は43館だった。入場料金は大人200円、学生140円だった。
資料 映画手帖 1961年10月号 表紙
20091207eigatetyou.pdf
 私は、この年の1961(昭和36)年9月広島映画サークル協議会に入会した。会員は2割引で入場出来る「友の会」会員だった。
posted by T.K at 14:22| Comment(1) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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