2010年01月31日

私的、広島と映画とアニメーション論 10

10 タシケント映画祭では

 当時、ソ連ではタシケント映画祭は偶数年、モスクワ映画祭は奇数年と交互に開かれていた。タシケント映画祭はこの年で四回目。コンクール方式をとらず、各国の映像文化を紹介しあうフェスティバル。今回から新たにラテンアメリカ諸国も加わり参加国は日本を含む52カ国とパレスチナ解放機構(PLO)、国連の2機構。
tasikent1976.JPG
 1976年5月19日から29日まで開催された映画祭に、日本からは松竹映画「同胞(はらから)」(山田洋次監督)が正式参加。「新幹線大爆破」「サンダカン八番娼館・望郷」「金環蝕」「アフリカの鳥」「友情」など八本が自由参加。代表団は団長に岡田茂東映社長、そして、徳間康快大映社長、女優の岡本茉利(同胞)、志穂美悦子(新幹線大爆破)、安田道代(金環蝕)さん、映画評論家の登川直樹、山田和夫さん、外国映画配給会社の役員さん等や映画プロデューサーの人たち21名。私は、異国の地、タシケントで一緒に過ごし交流した。
 広島で上映運動した「同胞(はらから)」の岡本茉利さん等とタシケント映画祭と同時開催されたソ連アルメニア共和国の首都エレバンでの地方映画祭にも一緒に行った。一緒に参加した映画評論家の登川直樹さんとはエレバンではホテルが同室になった。その後、登川直樹さんにはヒロシマ国際アマチュア映画祭の審査員になってもらった。また、東京親子映画連絡協議会の利岡栄さんとは帰国してからもお互いに連絡をし、広島の親子映画運動に役立つ情報を戴いた。
 東映の岡田社長とは1979年開催のモスクワ映画祭でも一緒になった。広島アニメーションビエンナーレ2006のメインプログラム『東映アニメーション50周年ヒストリー〜白蛇伝からふたりはプリキュアまで〜』では大変お世話になった。
 外国で開催された国際映画祭に日本代表団の一員として参加したことは、広島の地で映画運動に関わっていた私にとっては貴重の経験であった。後に、ライプチヒ記録映画祭、モスクワ国際映画祭、ベルリン国際映画祭、アヌシーアニメーション映画祭に参加した。この経験は、私の広島での映画の活動に大いに役立った。







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2010年01月24日

私的、広島と映画とアニメーション論 09

09 タシケント映画祭に参加

 1972年4月1日に設立した広島映画センターは『平和教育に映画を』と、1975年、全国映画センターが製作した人形劇映画『猫は生きている』の製作・上映運動を取り組み、広島県内15万人の人たちに見てもらった。広島映画センターのこの取り組みは全国的にも注目される映画製作・上映運動として評価され、私は1976年5月、日本映画復興会議代表としてソ連タシケント映画祭に参加することになった。

1976年5月20日中国新聞夕刊記事
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小森さん、広島から初参加
 ソ連ウズベク共和国の首都タシケントで19日から開いている『第4回アジア・アフリカ・ラテンアメリカ諸国国際映画祭』に、広島映画センター代表・同映画サークル副会長の小森敏廣さん(33)=広島市可部町虹山、会社員=が日本映画復興会議代表として参加した。広島からの出席は初めて。
 同映画祭の参加国は日本を含む52カ国とパレスチナ解放機構(PLO)、国連の2機構。日本からは松竹「同胞」が公式参加したほか8本が自由参加。
 小森さんは『東南アジア、アフリカなど広島地方で上映されない映画を主に観賞し、参加者との交流で、その国々がどんな映画づくりを進めているのかを聞くのと、ヒロシマを訴えてくるのが主な目的』と話していた。
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 日本映画復興会議は1961年にスタート。1958年をピークに日本の映画産業が急カーブで下降線をたどる中、映画表現の自由獲得や、日本映画の復興をめざして、映画を作る側と、見せる側とが共同で活動をしていた。初代議長は、『ひめゆりの塔』の今井正監督、広島映画センターも参加していた。

この映画祭で広島出身の東映の岡田茂社長と一緒だった。
タシケント映画祭招待状
invitation1976.pdf




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2010年01月17日

私的、広島と映画とアニメーション論 08

08 広島平和教育映画ライブラリーの設立 

 1972年4月1日に設立した広島映画センターは『平和教育に映画を! 』と、1975年、全国映画センターが製作した人形劇映画『猫は生きている』の製作・上映運動を取り組み広島県内15万人の人たちに見てもらった。この映画製作・上映運動は1972年6月1日発足した広島平和教育研究所と広島映画センターとの方針が一致し、広島平和教育映画ライブラリーの設置へと結びついた。

1976年4月1日、人類最高の倫理であるヒロシマを原点とする平和教育推進のために、広島平和教育研究所と広島映画センターは共同で『広島平和教育映画ライブラリー』を設置した。
 子どもたちに、視聴覚をとおして原爆・戦争を追体験させ、そして問題意識を深めていくことは平和教育の推進にとって欠かせないものとなっています。

発足時のライブラリーは

劇映画 5本
「ひろしま」   関川秀雄監督、 1953年製作
「原爆の子」   新藤兼人監督、 1952年製作
「千羽鶴」    木村荘十二監督 1958年製作
「ヒロシマの証人」斎村和彦監督、 1968年製作
「猫は生きている」島田開監督、 1975年製作

記録映画 8本
「広島・長崎1945年8月」 1970年製作
「ノーモア・ヒロシマ」      1975年製作
「生きるーその証しのために」  1976年製作
「太田川」 1974年製作
「ヒロシマ原爆の記録」 1970年製作
「われわれは監視する」 1975年製作
「自衛隊」           1974年製作
「教科書百年」         1973年製作 

この時はまだ、アニメーション映画の「ピカドン」はなかった。
1978年に木下蓮三さんによって製作された。


『広島平和教育映画ライブラリー』リスト、要保存NO,1
Peace.pdf






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