2010年02月28日

私的、広島と映画とアニメーション論 14 『ピカドン』−2

14 『ピカドン』−2 あらすじ

 『ピカドン』のタイトル。日本家屋の一間。暗い。それが明るくなって1945年8月6日の朝が来る。暑い夏の朝、セミの声が聞こえる。庭には、白い洗たくもの。一人の男の子が、紙ヒコーキを片手に、部屋を走り回る。抱きあげて、ほおずりする父親。こどもの笑い声。父親と姉があわただしくでかけて行く。どこにでもある、朝の平和なひとときだ。
 外では、光をはじいてキラキラと輝く川。人々を乗せて走る路面電車。青空を舞う小鳥。道ばたの赤い花が、ポロンと朝霧をこぼした。
B29の不気味な爆音が聞こえる。軍需工場の中で働く人々の顔がアップに映し出されて、サイレンがけたたましく響く。
 柱時計が八時十五分を指そうとしている。人々は、まだひとときの平和に包まれている。縁先で、赤ん坊に乳をふくませる母親、表にたらいと洗たく板をもち出して、洗たくをするおばあさん。小学校では、先生と生徒が、運動場で体操をしている。ビルの石段に腰をおろし、汗をぬぐってホッと一息ついている女、二階の物干し場から、青空へ向けて男の子が紙ヒコーキを飛ばそうとしたとき----。
 爆音。
 一瞬、画面は白黒に。そして赤い煙。建物も、電車も崩れる。
pikadon.jpg

 ポッと髪の毛が逆立ち、乳をふくませたままの格好で、溶けて崩れてしまう母子。髪が抜け、皮膚が溶け、目もとび出して消えてしまう石段の女、倒れた家の下敷きになった人を助けようとした人が、手をさしだしたら、ベロリとはがれた皮膚だけが残ってしまう。川岸にたどりついて、折り重なったままあえぐ人たち・・・・。
 大写しのキノコ雲と、がい骨の山、無残な焼け跡の実写が入る。

 再びアニメで、夜の広島の上空。現在の日本の繁栄を象徴するような企業の名をかたどったネオンがきらめく。その画面に黒い紙ヒコーキの影が重なる。紙ヒコーキは、いつまでも上空を舞い続ける。
                              =終=
  『ピカドン』シナリオから。



posted by T.K at 22:00| Comment(2) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月21日

私的、広島と映画とアニメーション論 13 『ピカドン』−1

13 『ピカドン』−1 木下蓮三作

 1977年11月19日〜26日までドイツ民主共和国で開催された第20回ライプチヒ映画祭で一緒だった木下蓮三さんが来広。
 “『日本人』を制作した後、新作『東京、東京、東京』の構想を練っていたが作品に集中できず浮かぶのはヒロシマのことばかり、『東京、東京、東京』は一旦棚上げ、原爆をテーマにした作品作りに挑戦することにした。” と1978年8月、広島をリサーチのために来広された。
 広島映画センターの田辺昭太郎事務局長と原爆資料館、被爆者、被爆者が描いた原爆の絵、ヒロシマに関わりのある場所を案内した。
 そして、その年の10月末に完成した『ピカドン』が届けられた。
 作品をみて驚いた。広島平和教育映画ライブラリー作品の新藤兼人監督『原爆の子』などの劇映画、『広島・長崎1945年8月』などの記録映画で表現出来なかったものがアニメーションでリアルに描かれていた。
 一緒にリサーチした田辺昭太郎も『これまで何人もの人が、原爆をテーマに映画をつくりたいと広島にやってきた。が、いつもどこか違うと不満が残った。アニメーションは初めてだが、ズバリ描ける長所が出ている。街の様子、服装など時代考証もしっかりしている』と評価した。
 私も、わずか8分52秒の、初の原爆告発アニメーション映画『ピカドン』に魅了された。効果音と、ピアノ音楽が入るだけで、セリフは、ない。なのに、見終えた後、しばらくの間、息をのんだ。
 木下蓮三さんは、“見る人の反応はともかく、事実を残したいという気持ちで、出きるだけ正確に当時の様子を再現した。”という。
 アニメーションがどれほど多様な可能性をもち、いかに力強く私たちの願いを映像化できるか、そのことを『ピカドン』は証明してくれた。

 pikadonIMG.jpg

 翌年の1979年2月、株式会社広島映画センターとして法人化した。映画センターはスタジオ・ロータスと『ピカドン』のフィルム販売・配給権の契約をし、全国配給に取組んだ。




posted by T.K at 11:28| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月14日

私的、広島と映画とアニメーション論 12

12 木下蓮三さんとの出会い

 私は1977年11月19日〜26日までドイツ民主共和国で開催された第20回ライプチヒ映画祭に参加した。そこで木下蓮三さんと出会った。
DDR197711.jpg
写真は当時の東西ベルリンの象徴であったブランデンブルク門をバックに、左端が木下蓮三さん、菅家陳彦・まり夫妻(記録映画監督)、筆者、右端は増田健太郎さん(独立映画社社長)。

木下蓮三さんは1936年9月3日大阪生まれ。
大阪コマーシャルフィルム、毎日放送映画社を経て、1967年、スタジオロータス設立。
『ゲバゲバ90分!』『コント55号のなんでそうなるの』『カリキュラマシーン』などのテレビ番組や数々のCMアニメーションを演出・制作。
CMはIBA、クリオ等の国際賞を多数受賞。

その一方で、短編アニメーションを自主制作。
1971年の処女作は『いったい奴は何者だ』。
1972年の『メイド・イン・ジャパン』はニューヨーク国際アニメーションフェスティバルでグランプリ受賞、
1977年、このライプチヒ映画祭には『日本人』を持って参加され、ライプチヒ映画祭名誉賞を受賞された。

 この映画祭に参加した代表団員は、よく一緒に食事し、記録映画の現状を論じた。私は、木下蓮三さんと、『広島平和教育映画ライブラリー作品の映画でもって、平和教育を進めている』と話した。特に原爆の悲惨さを記録映画で表す難しさを語った。
 翌年の4月、映画サークルの例会にアニメーション映画祭(第82回例会)を企画し、アニメーションのなりたちから現在に至るまでを、アニメーション作家の目を通して話してもらう『アニメーション映画の過去と未来』講演会の講師に広島に呼んだ。木下蓮三さんとの付き合いはこのライプチヒ映画祭から始まった。



posted by T.K at 11:47| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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