2010年06月27日

私的、広島と映画とアニメーション論 27 広島国際アニメーションフェスティバル−1

27 広島国際アニメーションフェスティバル−1

 広島はフランスのアヌシー、クロアチアのザグレブ、カナダのオタワと並ぶ世界4大アニメーションフェスティバルの1つとして広島国際アニメーションフェスティバルが1985年から開催されている。

 私と広島国際アニメーションフェスティバルの誕生に貢献した木下蓮三さんとの交流は先にライプチヒ映画祭での出会い、『ピカドン』の上映・普及で紹介したが第1回大会開催までを中国新聞記事等を引用して振り返ってみる。

先ずは、2004年の第10回大会記念展示「愛と平和に恋した人々」 第1回大会の思い出 故木下蓮三日記が語る『アニメーションフェスティバル誕生まで』から。

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 広島国際アニメーションフェスティバルが誕生したのは1985年の被爆40周年事業としてである。生みの親としてフェスティバル実現のため奔走した木下蓮三氏の足跡を追うことにより、誕生までの流れをまとめたものである。

・新作「東京、東京、東京」制作のため何時ものように小夜子にホテルに監禁される。こんど出所できるのは何時のことだろう。 作品に集中できず浮かぶのはヒロシマのことばかり、新作「東京、東京、東京」は一旦棚上げ。原爆をテーマにした作品作りに挑戦することを決意。
・1978年8月 広島をリサーチのために訪れる。東ドイツのライプツッヒ映画祭で出会った広島映画センターの小森敏廣さんを訪ねる。田辺昭太郎氏を紹介される。
・1978年10月末 「ピカドン」完成
・1978年末 「ピカドン」マスコミに大きく取り上げられる。広島に受け入れられ小夜子共々ホッとする。
・1979年1月 長年思いつづけていた映画祭の夢、広島で語る。小森氏、田辺氏のほか広島国際文化財団の金井宏一郎氏が強く賛同、実現に向け広島が動き始めた。
・1979年―1982年 開催に向け役所、企業等を回り地ならしを行う。
・1982年 電通が手塚治虫氏につくば博覧会に併せてアニメーションの映画祭ができないかと打診。全体がそちらに向け動き出す。広島も遅々として進まず、筑波で行うも良しとかんねん。新たな創作活動のためニューヨークに移住することを決意。ヒロシマへのアプローチは一旦断念。
・1983年12月 ニューヨークにて新居を求めさ迷い歩く毎日。ようやく小夜子喜びそうな物件あり。12月26日知らせるため一時帰国。よろこぶ顔が楽しみ。
ところが、空港に迎えに来た小夜子より思いがけない話を聞かされる。日本不在の間に金井氏より連絡あり、来年、夏にメッセコンベンションシティ構想の柱として、また被爆40周年事業としてアニメーションフェスティバルを行いたいが出来るかとの質問があり、小夜子、即座にできるとの回答したという。ニューヨーク移住計画はどうなるのだろう。フェスティバルは本当に開催できるのか。暗澹たる気分になる。
・1984年 再び広島市よりフェスティバル担当上京。フェスティバル開催に向け一機に動き始める。
・1984年3月15日 中国新聞が1985年夏の開催決定をスクープ報道。
・1984年3月 小夜子と共に広島を訪れ荒木市長に直接、開催要請書を提出する。
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2010年06月22日

私的、広島と映画とアニメーション論 26 ヒロシマ国際アマチュア映画祭

26 ヒロシマ国際アマチュア映画祭

 広島はフランスのアヌシー、クロアチアのザグレブ、カナダのオタワと並ぶ世界4大アニメーションフェスティバルの1つとして広島国際アニメーションフェスティバルが1985年から開催されている。
 その広島で、もう一つの国際的な映像の“祭”として、ヒロシマ国際アマチュア映像祭(1993年まではヒロシマ国際アマチュア映画祭)が、「平和と生きる尊さ」をテーマに、国内および海外のアマチュアから作品を募集し、優秀作品を表彰するもので、被爆30周年を機に、1975年から隔年で開催されてきた。(受賞作品は、RCC中国放送が保存。残念ながら、1997年の第12回で休止となった。)

ヒロシマ国際アマチュア映画祭について (第1回の資料から。)
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 人類初の原子爆弾が広島、長崎に落とされて、ことし30周年を迎えました。今日、核の脅威はますます増大してきており、人類の平和を切望する声は、核の脅威に比例して高まってきています。

 このような情勢のもとで、被爆30周年を機に、世界の人びとへ “映像による平和祭”開催を呼びかけ、平和をアッピールすることは被爆都市ヒロシマの責務であるとして、広島市を中心に「平和と生きることの尊さ」をテーマにした映画の募集が進められてきました。

 この呼びかけは、海外16ヶ国から59編、国内140編、計199編という確かな手応えとなって、ヒロシマに返されてきました。参加国は、イラン、アメリカ、ブラジル、ルーマニマ、西ドイッ、イタリア、マルタ、オーストラリア、フランス、イギリス、ハンガリー、ユーゴスラビア、カナダ、アルゼンチン、ウルグアイ、ナイジエリア(応募数順)、それに日本となっており、日本を含めれば、五大陸からすべて参加があったことになります。国内では、東北地方を除く全国各地から応募があり、映画祭に対する関心が地域的にも幅広いものであることがうかがわれます。

 注目のブランプリは「ふたりぼつち」が、「自ら深く関わり合っている題材を、頭で作りあげるのでなく、粘り強い観察で追求した力作」として、選ばれました。

 第一回目は、作品応募数、参加国数そして作品の質とともに多くの成果を挙げました。これを受けて、今後は隔年で開催される予定です。再び“草の根の映像”をヒロシマの地に互いに持ち寄り、映画芸術の花を、世界平和の花を開かせましよう。
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 選考委員は、広島出身の新藤兼人監督が第1回から12回まで担当された。その他、映画関係者が多く参加されたので名前だけ紹介する。瓜生忠夫(評論家)、山田和夫(映画評論家)、古谷綱正(ニュースキャスター)、ドラルド・リチー(日本映画史研究家)、川喜多かしこ(映画評論家)、佐藤忠男(映画評論家)、スティーブン・リーパー(現広島平和文化センター理事長)、登川直樹(映画評論家)の各氏。

 1997年の第12回の大会には、国内から161編、海外からは29ヶ国・地域から136編、計297編の作品が寄せられた。
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2010年06月13日

私的、広島と映画とアニメーション論 25 ベルリン国際映画祭

25 ベルリン国際映画祭 

 私は、映画「こんにちはハーネス」のプロデューサーとして、第34回ベルリン国際映画祭に招待された。

1984年(昭和59年)3月11日 中国新聞
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 第34回ベルリン国際映画祭に参加して    小森敏廣

 「子供たちは確実に大人になる。そして将来映画観客となる」。ベルリン国際映画祭事務局長ハデルーン氏は、ベルリン国際映画祭に六年前から「児童映画部門」を設けた理由について、こう話を切り出した。

 児童映画部門の上映会場ウーファ・パラスト劇場(定員五百三十三人)は、西ベルリン市の中心街、東京の銀座に相当するクーダム通りに面した立派な劇場。この映画祭開催中(2月17日〜28日)私たちが製作・出品した「こんにちはハーネス」を含めて十一ヶ国、十六本の作品が上映された。入場料は、小人ニマルク、大人三マルク(一マルク=約九十円)と、広島での小学生千円、大人千五百円に比べかなり安い。

 これについて、ハデルーン氏は、児童映画部門を設けた二つの理由として、一つは子供たちに小さい時から世界各国のすぐれた作品に出会う機会を作ってやること。もう一つは、その子供たちは確実に大人になり、また確実に映画観客になってくれるからーと、このベルリン国際映画祭の実質的なスポンサーである西独の国・州(西ベルリン特別州)の映画政策を話してくれた。また、10人以上の団体はその半額とし、後で映画についての話し合いを持つことを条件に、引率の教師は無料にすることも、合わせてつけ加えた。

 私は映画センター設立十同年を記念して、児童映画[こんにちはハーネス」を企画・製作してきた中で、子供たちに良い文化を届けること、子供たちの周囲の文化状況を良くしていくこと、が日本映画の復興に結びつくと考えていたが、まさにハデルーン氏の言葉は私の願いと一致した。今回「こんにちはハーネス」が、世界の三大映画祭といわれるベルリン映画祭に出品が決まった時、この映画を支持して下さった人たちと喜びをともにし、受賞を期待してこの映画祭に参加した。が、賞は惜しくもわずかの差で他に譲ったものの、このハデルーン氏の一言は大いに励まされた。また、日本での映画(文化)に対する助成策の貧弱さを、痛感させられた。しかし広島映画センターが「こんにちはハーネス」をはじめとして、児童映画を広島県内どこでも、児童・生徒十人足らずの小規模の小・中学校(分校)でも、一人当たり二百五十円で鑑賞を保障し、年間約二十五万人に映画を届けていることに確信を持つことが出来た。これを力に広島市が先ごろかかげた「メッセ・コンベンション・シティ]の方針に沿って、広島市でぜひ「国際映画祭」を開ける方向を模索して行きたい。       (広島県映画センター連絡会議議長)
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posted by T.K at 19:45| Comment(1) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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