広島はフランスのアヌシー、クロアチアのザグレブ、カナダのオタワと並ぶ世界4大アニメーションフェスティバルの1つとして広島国際アニメーションフェスティバルが1985年から開催されている。
私と広島国際アニメーションフェスティバルの誕生に貢献した木下蓮三さんとの交流は先にライプチヒ映画祭での出会い、『ピカドン』の上映・普及で紹介したが第1回大会開催までを中国新聞記事等を引用して振り返ってみる。
先ずは、2004年の第10回大会記念展示「愛と平和に恋した人々」 第1回大会の思い出 故木下蓮三日記が語る『アニメーションフェスティバル誕生まで』から。
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広島国際アニメーションフェスティバルが誕生したのは1985年の被爆40周年事業としてである。生みの親としてフェスティバル実現のため奔走した木下蓮三氏の足跡を追うことにより、誕生までの流れをまとめたものである。
・新作「東京、東京、東京」制作のため何時ものように小夜子にホテルに監禁される。こんど出所できるのは何時のことだろう。 作品に集中できず浮かぶのはヒロシマのことばかり、新作「東京、東京、東京」は一旦棚上げ。原爆をテーマにした作品作りに挑戦することを決意。
・1978年8月 広島をリサーチのために訪れる。東ドイツのライプツッヒ映画祭で出会った広島映画センターの小森敏廣さんを訪ねる。田辺昭太郎氏を紹介される。
・1978年10月末 「ピカドン」完成
・1978年末 「ピカドン」マスコミに大きく取り上げられる。広島に受け入れられ小夜子共々ホッとする。
・1979年1月 長年思いつづけていた映画祭の夢、広島で語る。小森氏、田辺氏のほか広島国際文化財団の金井宏一郎氏が強く賛同、実現に向け広島が動き始めた。
・1979年―1982年 開催に向け役所、企業等を回り地ならしを行う。
・1982年 電通が手塚治虫氏につくば博覧会に併せてアニメーションの映画祭ができないかと打診。全体がそちらに向け動き出す。広島も遅々として進まず、筑波で行うも良しとかんねん。新たな創作活動のためニューヨークに移住することを決意。ヒロシマへのアプローチは一旦断念。
・1983年12月 ニューヨークにて新居を求めさ迷い歩く毎日。ようやく小夜子喜びそうな物件あり。12月26日知らせるため一時帰国。よろこぶ顔が楽しみ。
ところが、空港に迎えに来た小夜子より思いがけない話を聞かされる。日本不在の間に金井氏より連絡あり、来年、夏にメッセコンベンションシティ構想の柱として、また被爆40周年事業としてアニメーションフェスティバルを行いたいが出来るかとの質問があり、小夜子、即座にできるとの回答したという。ニューヨーク移住計画はどうなるのだろう。フェスティバルは本当に開催できるのか。暗澹たる気分になる。
・1984年 再び広島市よりフェスティバル担当上京。フェスティバル開催に向け一機に動き始める。
・1984年3月15日 中国新聞が1985年夏の開催決定をスクープ報道。
・1984年3月 小夜子と共に広島を訪れ荒木市長に直接、開催要請書を提出する。
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