第1回広島国際アニメーションフェスティバルは1985年8月18日〜23日 広島市公会堂 で 開催となった。
木下蓮三さんに描いてもらった筆者の似顔絵
ここに、開催を前に中国新聞の載った木下蓮三さんを紹介する。
1985年7月18日 中国新聞朝刊より
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「ヒロシマ」アピールに情熱
木下蓮三
「お子様向け漫画」と国内の評価はいま一歩だが、欧米では“大人の文化”として定着しているアニメーション。それを残念がる風でもなく「フェスティバルでアニメの面白さを感じてくれるのでは」。8月18日からの国際アニメ祭広島大会へ胸を膨らませる。
民放テレビの放映が始まって間もない1955年ごろ、看板を書いていた。そのころスーパーマンに心ときめかせ、ディズニー映画にも胸を躍らせていた。そしてテレビの中で動く絵に魅せられ、コマーシャルフィルム製作の広告会社に就職。以来アニメひと筋。
1982年、米・国際アニメ祭でグランプリを受賞。その後もライプチヒ短編映画祭、アヌシーアニメ祭と国際大会で入賞、国内より海外で「レンゾー」の名は高い。
「外国の作品にはナチや戦争を風刺的に扱ったものが多い」。当時、世界でもあまり例のなかった原爆を扱ったアニメ「ピカドン」はこの驚きから生まれた。
1978年8月、炎天の広島を訪れ、市民が描いた被爆当時の絵の迫力に衝撃を受け、一気にかき上げた。紙飛行機で遊んでいた子供が熱線を浴びる。“あの一瞬”は描いていて涙が止まらなかった。
この情熱が「広島でも国際アニメ祭を」と駆り立て昨年6月、国際アニメフィルム協会で広島大会を2年に一度開くことが決まった。
第1次審査で36カ国、500本の作品がふるいにかけられた。「日本人の作品は、きれいだけどクリエーティブでない。作者はもっと映画を見たり、本を読んだりしなければ」が一次審査の印象だ。「世界のレベルを知ればきっと世界的なアニメーターが生まれるはず」と期待も寄せている。
8月18日からの本審査は一般公開。「音楽、美術関係の人、学校の先生、普通のお父さんにも見に来てほしい。こんな世界があることを知ってほしい」。
アニメ作家で広島大会のディレクターをも務める妻の小夜子さん(40)と二人暮らし。大阪出身。48歳。
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