2010年02月21日

私的、広島と映画とアニメーション論 13 『ピカドン』−1

13 『ピカドン』−1 木下蓮三作

 1977年11月19日〜26日までドイツ民主共和国で開催された第20回ライプチヒ映画祭で一緒だった木下蓮三さんが来広。
 “『日本人』を制作した後、新作『東京、東京、東京』の構想を練っていたが作品に集中できず浮かぶのはヒロシマのことばかり、『東京、東京、東京』は一旦棚上げ、原爆をテーマにした作品作りに挑戦することにした。” と1978年8月、広島をリサーチのために来広された。
 広島映画センターの田辺昭太郎事務局長と原爆資料館、被爆者、被爆者が描いた原爆の絵、ヒロシマに関わりのある場所を案内した。
 そして、その年の10月末に完成した『ピカドン』が届けられた。
 作品をみて驚いた。広島平和教育映画ライブラリー作品の新藤兼人監督『原爆の子』などの劇映画、『広島・長崎1945年8月』などの記録映画で表現出来なかったものがアニメーションでリアルに描かれていた。
 一緒にリサーチした田辺昭太郎も『これまで何人もの人が、原爆をテーマに映画をつくりたいと広島にやってきた。が、いつもどこか違うと不満が残った。アニメーションは初めてだが、ズバリ描ける長所が出ている。街の様子、服装など時代考証もしっかりしている』と評価した。
 私も、わずか8分52秒の、初の原爆告発アニメーション映画『ピカドン』に魅了された。効果音と、ピアノ音楽が入るだけで、セリフは、ない。なのに、見終えた後、しばらくの間、息をのんだ。
 木下蓮三さんは、“見る人の反応はともかく、事実を残したいという気持ちで、出きるだけ正確に当時の様子を再現した。”という。
 アニメーションがどれほど多様な可能性をもち、いかに力強く私たちの願いを映像化できるか、そのことを『ピカドン』は証明してくれた。

 pikadonIMG.jpg

 翌年の1979年2月、株式会社広島映画センターとして法人化した。映画センターはスタジオ・ロータスと『ピカドン』のフィルム販売・配給権の契約をし、全国配給に取組んだ。




posted by T.K at 11:28| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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