2010年09月13日

私的、広島と映画とアニメーション論 36 アニメ映画『はだしのゲン・2』

36 アニメ映画『はだしのゲン・2』

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 1984年12月8日から1週間、劇場(名画座)で上映したアニメ映画『黒い雨にうたれて』は苦戦した。原爆映画はやはり夏の上映・・・・・? の思いを強く感じた・・・・・。

 1985年、中沢啓治さんはアニメ映画『はだしのゲン・2』をゲンプロダクションで製作と発表。広島映画センターは田辺昭太郎をプロデューサーとして送り製作協力した。アニメ映画『はだしのゲン・2』は1986年5月に完成した。
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■かいせつ■
 今から四十一年前、第二次世界大戦の時、広島に原子爆弾が落とされました。1945年8月6日、この映画の原作をかいた中沢啓治さんが小学一年生だったときのことです。中沢さんは、その原爆を受けた子どものころの体験をもとにして、劇画「はだしのゲン」をかき、世界中の人々に大きな感動をあたえました。

 この映画『はだしのゲン・2』の物語も、中沢さんが子どもだったころ、広島の町で本当におこったできごとなのです。長編アニメーション『はだしのゲン』から三年、『はだしのゲン・2』では主人公中岡元は、四年生になりました。新しい友達“エンコウの政”や“勝子”“ドングリ”“ムスビ”なども登場してゲンや隆太と一緒に涙と笑いの大活躍をします。

 この映画の監督は平田敏夫さんです。

 今年は、国際平和年です。『はだしのゲン・2』はみんなに生きる勇気と平和へのねがいをとどけてくれることでしょう。
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 1986年を国連は国際平和年としたので国際平和年記念映画とした。また広島映画センターとしては広島平和教育映画ライブラリー十周年記念映画として位置づけた。

 1986年5月 アニメ映画『はだしのゲン・2』広島県内86市町村完成披露試写会を行い、1986年学校上映作品として位置づけた。鑑賞料金は、小学生1人300円・中学生1人300円。出張映写料は無料として取り組んだ。12月末、9万人が鑑賞した。



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2010年09月04日

私的、広島と映画とアニメーション論 35 黒い雨にうたれて

35 アニメ映画『黒い雨にうたれて』

長編アニメーション『黒い雨にうたれて』のチラシ
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 漫画家中沢啓治さんは1945年8月6日、広島で被爆、その体験をテーマにした劇画「はだしのゲン」は、全国少年少女に愛読され読者数1,000万人を超すベストセラーとなった。劇映画として『はだしのゲン第1部』(山田典吾監督、1976年)、『はだしのゲン第2部』(山田典吾監督、1976年)、『はだしのゲン第3部』(山田典吾監督、1980年)と映画化。また、長編アニメーション『はだしのゲン』(真崎守、1983年)と映画化された。

 当時、独立プロ系の配給会社は広島映画センターが加盟している全国映画センターと共同映画系列があった。劇映画の第1部、第2部は共同映画系列、第3部は映画センター。アニメ『はだしのゲン』は劇場上映後から広島映画センター。

 1984年、中沢啓治さんはアニメ『はだしのゲン』の収益金を元に「はだしのゲン」を描く前に初めて原爆を題材として描いた漫画「黒い雨にうたれて」のアニメ映画化をした。完成は7月20日。
中沢さんは、アニメ映画化に際して、
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 22歳(1961年)の時、上京して漫画家生活に入ったが、被爆者だと解ると放射能が伝染するのではないかと側に寄らず、異様な無知な目で見られる原爆差別にも出会った。この世から、私から、「原爆」という言葉は消えてしまえっ!という気持ちで逃げ回る一方だった。

 1966年、原爆病院、自宅治療と四年間の闘病生活の末、母が死に、火葬に立ち会って、私の意識は一気に変った。母の骨は放射能で食いつくされ、小さな破片だけ残して無だった。母は、あの一発の原爆のために、どんなに戦後を苦しみ抜いて生きてきたか・・・・その母の骨まで奪っていくのかと思うと腹の底から怒りが湧き上がった。母と私の復讐戦だという気持ちで叩きつけるように描いた作品が「黒い雨にうたれて」だった。

 流行に乗って「愛」とか「やさしさ」が口先でもてはやされているが、真の怒りを忘れてはならないのではないだろうか。そんな思いを込めてアニメ『黒い雨にうたれて』を制作した。
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 しかし、長編アニメーション『黒い雨にうたれて』は配給先が決まらず上映のメドが立たず、中沢さんは困惑していた。それを聞いて、私は埼玉映文協と共に長編アニメーション『黒い雨にうたれて』の全国配給委員会を立ち上げ配給を引き受けた。
  
1984年7月20日、東京銀座のヤマハホールで試写会。
広島では8月15日に名画座にて試写会。試写会後に長編アニメーション『黒い雨にうたれて』完成記念と「中沢啓治を励ます会」を実施し

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(写真は 1984・8・15 YMCAにて 励ます会)

9月18日、アニメ映画『黒い雨にうたれて』広島上映実行委員会を結成し、
12月8日から1週間、劇場(名画座)上映した。
併映は『生きるための証言』





posted by T.K at 18:17| Comment(1) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月29日

私的、広島と映画とアニメーション論 34 生きるための証言

34 生きるための証言−いま、ヒロシマから

 10フィート映画は、第一作『にんげんをかえせ』(1982年)、第二作『予言』(1982年)、第三作『歴史』(1983年)を完成。平和教育に、反核運動の中で上映された。特に『にんげんをかえせ』は被爆者自身が当時の被爆現場(記録映像にある撮影された場所)で証言するという手法で被爆の実相を語り、見る人に衝撃を与えた。この映画は16ミリプリントが7000本以上販売された。そして、この映画をみて、それまで語ることのなかった被爆者たちが語り始めた。

 1984年、片桐直樹監督が広島に来た。片桐さんは広島映画センター設立後に自主上映として取り組んだ『トンニャット・ベトナム』の監督であり、1977年ドイツ民主共和国で開催された第20回ライプチヒ映画祭で一緒だった監督。

 1984年当時、約38万人の被爆者がいた。しかし、マスコミや多数の人々に向かって被爆体験を話した人は極めて少なかった。当時の統計によれば0.1%にも満たなかった。監督はこの被爆者達に語ってもらうこと、被爆者がスクリーンから訴えてくれば、原爆の実相を知り、核廃絶への決意を、感動を持って見る人に与えるだろうと考え、製作委員会を結成し、広島に来た。

 広島映画センターは製作協力を決めた。監督は段原町に民家を借り自炊をしながらカメラマンと住み込み、撮影に入った。しかし、三十人ほどの被爆者に会い出演を要請したがすべて断られた。それでも粘り強く要請した。

 「被爆体験を持つ人々が高齢化し次々と逝かれます。私はあの核の恐ろしさを伝えなければ死んでも死に切れません」
 「原爆ちゅうもんは、ありゃあ地獄じゃね」
 「我われは三十九年まえに原爆は終わったのでなくて、そのときから原爆の苦しみははじまったと思っています」
 「やっぱり生き残ったものが話すことが核兵器のない世界をつくるために必要だ」と語った被爆者たちの協力で映画はその年の6月にカラー・58分の作品として完成した。

 『にんげんをかえせ』が被爆の実相を映像で証言した作品だとすれば、この映画は被爆者自身の声で語った証言集であり、つくりものではない真の体験談の作品として完成した。

 広島映画センターはこの作品を平和教育映画ライブラリーに加え、県内での上映を推進し、また、全国へ16ミリプリントで販売促進した。

 その後、ビデオの登場により多くの被爆者の証言が記録されるようになった。



posted by T.K at 12:36| Comment(1) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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