1984年4月10日付で国際アニメーションフィルム協会(本部フランス・アヌシー市)ジョン・ハラス会長から広島市宛に「1985年8月に広島で国際アニメーション映画祭を開催するならば支援する」と手紙がきて、広島市は十一日、全面協力する方針を決めた。
1984年4月12日 中国新聞朝刊より
----------------------------------------------------------
反核訴える「国際アニメ・フェスティバル」
来夏、広島で実現へ 市が全面協力決める
被爆四十周年の来年夏、国際アニメーションフィルム協会=ジョン・ハラス会長(英国)、約三千五百人=所属の日本人作家が広島で開催を提唱している反核・平和をテーマにした国際アニメ・フェスティバルに対し、広島市は十一日、全面協力する方針を決めた。同協会日本支部(木下蓮三支部長、二十二人)はさっそく準備に入り、六月の世界総会で広島開催の正式決定を得るために「被爆地ヒロシマでの開催意義を世界にアピールしたい」と張り切っている。
----------------------------------------------------------
広島では、実際1985年の開催までにはいろいろあった。広島市議会も賛否両論あって紛糾した。当時自治省から出向し政令指定都市の実現に取り組んでいた澤田秀男助役が理解を示した点は大きな力を得た。澤田助役は若い頃、湘南地方で現東京都知事の石原慎太郎氏と文学同人誌仲間であったと聞いた。
それから、開催まで大変だった。財政難に加え、人材難・・・・。官民一体となって、なんとかこの国際的なイベントを成功させようと・・・・。ボランティアで映画手帖社、日本交通公社、広島YMCA、観光協会、電通、日通、それに広島映画センターが入った。広島映画センターからは田辺昭太郎、古米邦生、由本真理子を送った。
1985年1月26日、ASIFA JAPANの総会に広島から塩谷、中原、田辺、それに筆者が参加し、第1回広島国際アニメーションフェスティバルの運営について協議した。
その時の写真。

前列左から木下小夜子、相原信洋、小野耕世、筆者、塩谷恭人(広島市文化振興事業団常務理事、フェスティバルGS)、田辺昭太郎、手塚治虫、後列右から木下蓮三、中原哲哉(広島市文化振興事業団事業課長)、二人おいて川本喜八郎、後列左から三人目古川タク各氏。
手塚治虫さんと名刺交換する筆者
